母の不安-Ⅱ


かろうじて母にメールを送っていたものの、
かなり慌ただしい数日だった。

母の第一声は「サクチャン、声を聞きたかった」。
母は間違いなく変わった。
私はこの一言に肯定的な思いを抱いている。

かつて母は裏面で会話を成立させようとしていた。
たとえば「久しふりね、1週間以上たつわよね」などと言う。
これについてはアルツハイマー云々ではなく、
もともとの母の会話展開で、八重さんの子供である私は、
もっと電話をしてほしい、かまってほしい、ということ
なんだろうなぁ、と受け止めていた。
私に気持ちの余裕がない時もあるので、時折「そんな言い方しなくても…」
と言ってしまうこともあった。

母は自分の感情や欲求を伝えない。
自分が何か食べたい場合「お腹すいていないの?ごちそうするから」
とレストランに促したり、自分が苛立つと投影し「サクチャンには
腫れものに触るように接しなきゃならない」などと言い出す。

何を伝えているのか認知できない私 vs 察してもらえない母

母にすると察してもらえない自分が存在していることを
認識していないので、話を聞いている私が面倒臭くなって
「もういいわ」というと、母は私が怒っているなどと受け止める。

昨夜、仕事が終わってから、関係学会の方と会食があった。
その際、アルツハイマーの話が出て「アルツハイマーになる方を
選ばれた人間であると発言された方がいらっしゃいまして…」と
間接的に発言された方の話を伺った。なるほどなぁ、と感銘を受けた。

母をみていると人間が本来持ち合わせている欲求や感情を
よくも悪くも表すようになった。
物とられ妄想を身近な人にぶつけるといわれる。
私は、たとえ非合理な想定であったとしても
その人のなかでは事実であって、それを身近な人、つまり
信頼をする人にその事実や悲しみ、怒りなどを受け止めてほしい
という願いが根源あると考える。
その事実は背景にある感情や欲求から創られたものなのかもしれない。

私は母を通して、人というものを改めて学んでいる。
守られずぎると自分を守るフィルターを作れず、
そばに誰かいないと怖くて仕方がなくなるのかもしれない。
自分は大丈夫という無意識に思えず、
**があるから大丈夫、**がいるから大丈夫といった
何かに依存する思いに似ているように感じる。

自己信頼の低さ。これは、最終的に他者信頼の低さにつながる。
これからの教育が自身をつけるために何かを身につけるなどと
といったものでなく、何もなくてもありのままの自分、
目の前にいる自分が尊く、何もない自分を誇れる人格形成であってほしい。

なぁ~んてちょろっと未来を願う私も生まれ、母に感謝。
福祉の原点は、躾にあると勝手に思っている。

6月3日
サクラ