お父さんの遺言


今日は雨だった。
お天道様が頭の上にない時、母の調子が悪くなりがちなので
朝から心配で、夕方16時半過ぎにようやく電話をかけた。

第一声。ちょっとヤバイ感じ。
「あら、お母さん、どうしたの?寝ていた?」
「探し物をしていたの」
「そう、天気の悪い日に探し物をするな、って
お父さんが言っていたわよ」
「あら、そうなの?どうして?」
「いい智恵も浮かばないし、探し物も出てこないんだって」
「そうなの・・・あのね、6月に信託さんの満期なの。でね、
行ってこようと思うんだけど、印鑑がないから行けないの」
「そうかぁ、でも今日は5月17日だし、まだ日にちがあるわよ」
「そうねぇ・・・ねぇサクチャン、嫌な話かもしれないけど、
腹を割って話すから・・・」

心の中で、出た!始まるぞぉ!という思いだった。
姉が私に「権利書・貯金通帳・実印を預かっているか」などと聞き、
「自分たちが預かろうかと話している」と言った内容の背景を
なんとかく感じ取った。
おそらく母は、ここ数日、印鑑を探していたのだろう。
でも、出てこないので「ないの。誰かに・・・」と姉に話したと思われる。
姉は勿論、母がいうサクチャンの友達の存在をないものと考えているが
私が持ち出しているかと想定しているように感じた。
ったくもう、玄関ドアのチェエーンキーの話でいきなり
「いつお母さんのところにいったの?」で打診かぁ、
そして私の回答を得たら「ところでお母さんが権利書・貯金通帳・
実印がないといっている」で、再びメール、そして食いつかない
私に改めて「預かっていますか」だから、困ってしまう。
ったくもう、カエデちゃんと違って、母のお金を勝手に使うことも
その前に、母のお金など当てにしていない。自分であれば、という
概念で妹をみないでほしい。まさに投影の世界。ここでも母と似ている。

私は、姉のこと、それからこれから展開される話を頭に描きながら
「なあに?私もいつもお母さんには正直に話しているから、
お互いに何でも話そうね」と話を進めた。

「あのね、印鑑をどこに持っていったの?」
「どこにも持っていっていないわよ。預かってもいないし」
「そう、じゃぁ、どこに持っていったか知っている?」
「そうね、お母さんがどこに隠したかお父さんも知らないんじゃないの」
「あのね、色々あるのよ。私はお酢をたくさん使うのね。この前、
誰かが使った御礼に置いていったのか、お酢の大瓶があるのよ」
「なるほど、たくさん使うお酢の大瓶が戸棚にあったんだね」
「そうなの。それにね、納豆も冷蔵庫に入っているの」
「冷蔵庫に納豆が入っているんだ。そうかぁ」
「そうなの、誰かがね、置いて行くの。サクチャンを疑っているわけ
じゃないからね。その友達が置いていくんだと思うの」
出たぞ、サクチャンの友達ぃ~~。

「お母さんとしては、心配で出かけられないね」
「そうなの、お出かけをしたくても、帰ってきたら部屋の中が
おかしくなっているでしょう。それが心配で」
「そう、部屋がおかしくなることが心配で出られないってことだね」
「そうなの。この前もね、目覚ましの蓋が置いてあったの」
「目覚ましの蓋?電池が入っているところの蓋ってこと?」
「そうなの」「そうかぁ・・・困ったね」「嫌だわよ」
「ねぇ、お母さん。時々ね、お母さんが夜中に私に携帯電話で
電話をかけてくることを知っている?」
「え?私が?私は電話をかけないわよ」
「そうかぁ。あのね、お母さんの頭の中の事実を私は否定しない。
だって、お母さんの中では事実なんだから。いま、私はお腹がすいて
いるのよ。お母さん、嘘って言える?」
「いえないわ。だってサクチャンのことだから」
「そうよね、それと同じでお母さんの中で思っていることは嘘ではないの」
「そうよ、嘘を言っていないもの。事実だから」
「そうよね、お母さんが言っている事はお母さんの中では事実なの。
そうね、母さんの中のことを事実と言うね、で、私やお姉ちゃん、その他、
お母さん以外の中にあること、実際にあることを真実と言うね」
「私のことを事実ね、実際のことを真実ね」
「そう、事実と真実という言葉で、わかりやすく説明するからね。
お母さんの頭の中にあるサクチャンの友達は事実だけど真実じゃないの。
お母さんが夜中に私へ電話していることは事実じゃないけど真実なの」
「じゃあ、私が思っていることと実際は違うの?」
「そうね、正解!すばらしい!」
「ねぇ、サクチャン、じゃあ、誰がやっているの?」
「誰がかぁ・・。お母さんの病気名って何?」
「アルツハイマー病」
「そうだね、またまた正解。病名がつくってことは、症状があるんだよね」
「そうね、癌なら痛いし、足を折ると痛いし・・・」
「そう、痛いっていう症状があるよね。じゃあ、アルツハイマーは?」
「ん~わからない。だって私どこも痛くないもの」
「そうだね、ありがたいことに痛みがないね」
「痛み以外の症状ってあるの?」「病気によって色々な症状あるのよ」

私はせん妄(活動性、非活動性)仮作業について母の様子に注意を
払いながらできるだけ平たく説明をしていった。
そして「お母さん、投薬を受ける前のことだけと、私が電話した時、
よく『寝ていたの?』って聞いていたことを覚えている?」
「覚えている。『寝ていたの?』と『聞いている?』って」
「そうよね、お昼間でもウトウトして、そうだなぁ、専門用語では
意識混濁っていうのかなぁ。なんとなく意識がはっきりしていない
っていうか・・・」
「私、そういうことよくあるの」
「そう、よくあるのね。最近もある?」
「最近はあまりなくなったけど。ねぇ、そのせん妄って、たとえば
洗濯とかしていてもあとで『洗濯をしていないのに』ってなるの?」
「場合によってはあるかもね。でも、仮性作業っていうのかな、
押入れから物を出したり、一見整理しているようなんだけど、
結局、出してしまって収集つかなくなるって感じかな」
「やっかいな病気になったわ」
「お母さんにとっては、やっかいかもしれないね」
「サクチャンだって、夜中に電話がいったら迷惑でしょう」
「大丈夫よ。私、直ぐに眠れるしね。お母さんね、自分の母親が
病気になって苦しんでいたら、やっかいって思う?」
「思わないわよ!」
「そうよね、苦しむっていう病状も電話をかけるっていう病状も
同じでしょう?病状には違いないから」
「そう言ってもらえるといいんだけど・・・」
「私はね、いつもどこまで話すといいか考えているの。
お母さんが事実として思うことで、お出かけができなかったら
結局、病気を悪化させることになるし、それにお母さんの中の
事実によって血圧だって上がるでしょう」
「ねぇ、病気には出かけた方がいいの?」
「お母さんの今の病状には出かけた方がいいのよ」
「そうなんだ。家にいるとね、クサクサするの」
「そうねぇ、クサクサして、また考えて、更にクサクサして」
「そうなのよ。でもね、サクチャンには迷惑かけるわね」
「迷惑じゃないってばぁ。お父さんがね、お母さんの面倒をみなさい
って遺言を残しているんだから。お父さんはアレしなさい、
コレしなさいと全く言わなかったけど、お母さんのことだけ
『最後まで面倒をみなさい』は言っていたわ。それぐらいしないと
私だって、お父さんに面目も立たないし、何よりお母さんが
不安をできるだけ感じないで過ごして欲しいの」
「ありがとう、サクチャン。どうしてこんな病気になったのかしら」
「お母さん、病気の原因を追求するのは学者さんがするといいのよ。
なった人は、どのように過ごそうかを考えたほうがいいと思うわ」

こうして母と1時間ぐらい話した。
吉と出るか、凶とでるか、それはわからない。
でも、状況を観ながら、母が理解するように話していくつもり。

この後、1時間後に電話をした時、母の第一声は明るかった。
それでいい。とりあえず、明るい声が出ている状態ならば。
近頃、母は随分と前向きになっている。
水分摂取、規則正しい食事時間。ひとまずこれに取り組んでいる。
母は、アルツハイマー病の末期が指や腕が動かせず、歩けなくなると
理解している。痴呆的な部分を伝えるよりも効果があると考える。

5月17日
サクラ