不思議な国の八重さんはどこかに行った
念のため母に9時過ぎに電話を電話をした。
姉の「お薬ですよコール」が定着しない限り、
母は自分で薬を飲むし…飲むといいんだけど、
飲んだつもりで飲まないことが起こってもてーへんだ。
「もしもし、お母さん、おはよう」と言うなり
「サクチャン?サクチャン!よかったぁ、誰も電話をくれなくて」と
母は子どものように泣きながら話す。
「お姉ちゃんから電話がいかなかったの?」
「来ない」
「そう…お母さん、不安だったのね。まず、薬を飲んでしまおうね。」
「うん、ちょっと待ってて。飲んでくる」と受話器を置いた。
昨日のことを反省したのか、母は電話を待っていた。
でも、次女サクラからも、長女カエデからも電話がこない。
何か見捨てられたような気持ちになったのかもしれない。
薬を飲み終えて、再び受話器を持った母は、
「明日はどうなるの?サクチャンが薬の電話をくれるの?」
「私がするから。いままで通り8時半にね」
「そうして頂戴。サクチャンの言うことをきくから。
ディサービスも行くし、8時半までに朝ごはんを食べるから。
だから見捨てないで」
「お母さんのこと、見捨てないよ。電話をしなくっても
見捨てることではないから。お姉ちゃんも何か事情があったと思うよ」
「もうカエデはいい。偉そうなことばかり言って、頭ごなしに言うの」
「そうかぁ、お姉ちゃん、表現が下手だからね。心配しているのにね。
お母さん、ひとまず今日も一日、楽しく過ごそうね。実は仕事がもう
始まっていて長い時間、話せないのよ」
「わかった。ありがとう。サクチャン、頑張ってね。体を気をつけるのよ。
休みをとっていないんだから。応援しているからね」
「ありがとう。お母さんが応援してくれていると思うと張り切っちゃうね」
ひとまず母の気持ちが晴れたようで、ホッとして電話をきった。
夜近くになって、ひといきつける時間ができたので、母に再び電話をした。
「聞いて!カエデがね、いくら電話をしても出ない!
電話代を払っているかとか言ってきたの!引き落としだって言っても
電話をいくらかけても出ないってね(云々)」
おやおや何がどうなっているのか、なだめることより、だた聴く。
「カエデちゃんなりに気にかけていたのね」
「私、カエデに『もう電話しなくていいから』って言ったの」
「え~マジ?言っちゃったの?!」
「そうよ、もう嫌だもの。声も聞きたくないし、名前も聞きたくない」
「ん~気持ちもわかるけど、カエデちゃんよ?」
けっこうすごい剣幕。よほど腹がたったようだ。
でも、支離滅裂でもなく、アルツ薬が投薬される前の
攻撃性炸裂状態とは違っている。
まぁ、いいや、親子だから、そのうち仲直りをするだろうし、
そのうち幸い(?)にも忘れると思う。
で、母は「サクチャン、辛かったね。貧乏くじばかり引いて」と言う。
「貧乏くじ?」
「だってそうでしょう、私がこんなになったばっかりに仕事が大変で、
自分のことで精いっぱいなのに、世話を焼かせて」
「お母さん、誤解しないで。私はお母さんのことをそれほど世話だと
思わないけど、おねえちゃんのことのほうが疲れるの」
「サクチャン、カエデに何を言われたの?」
「ん~?ん~」
「ひとりで抱え込まないのよ」
「…抱え込まないわよ。そりゃぁ悲しいし、勝手だなぁと思うわよ。
でも、引きずっていてもしかたがないし、今すぐ、どうこうできないけど、
そのうち自分で気持の整理できるから」
「それが独りで抱え込むっていうのよ。サクチャン、昔からそうだった。
じーっと考えて、ぐーっと抑え込んで、何もないかもようにして」
「お母さん…ありがとう。私、そうしかできないの」
「言いなさい、アルツだって言っても、まだ大丈夫だから。
まともなうちにちゃんと聞いておきたいの」
私は涙をもう抑えられなかった。労われることに心が温められた。
でも、私の涙は母が「まともなうちに…」と言ったことだった。
母は理解している。アルツハイマーがどういった病気なのか。
私が泣き始めると母は
「サクチャン、私はね、こんなになってもサクチャンの母親なの。
サクチャンね、私が辛い時、『お母さん、親子でしょう』って
言うわよね。同じことを言うわよ。サクチャン、親子なのよ。
サクチャンは『お母さんと私は運命共同体』とも言うよね?
サクチャンが社交辞令を言うと思わない。心にないことを言う
子じゃないと思うの。私も今後、何かあっても話しにくいから
お互いに隠しごとなくいたいの。ね、話して」と言った。
私は姉から、30年前と20年以上前に入院した時の
事を迷惑をかけられたと言われたこと、友達がいないだろうから
性格を考えたほうがいいと言われたこと、母や姉に昔からの
仕打ちをしているのでしょう、と言われたこと、そして、
電車に乗れなくなってしまったことを伝えた。
母は電車に乗れなくなった私を労い、そして「相変わらずだね、
あの人(カエデ)も何度も入院したことあるでしょう。
その時、サクチャンがどれくらいの思いをしたか…。
父親はいたけど、小学生のサクチャンが独りでどんなに寂しい
思いをしたか…淋しかったよね。友達だってカエデ以上にいるし、
性格が悪いとか、自分の都合が悪いことを言われるから性格が
悪いって言うだけでしょう。それだって私のためなんだから。
よく話してくれたね。そんなことを言われてよく我慢したね。
サクチャン、大丈夫だから。私、サクチャンを守るからね。
こんなになったけど長生きするからね、いいかい?」
「長生きしてほしいの」
「そう、長生きしてほしいのね。ありがとう。サクチャンの
ために死ねないし、ボケでもいられないわ」
「ありがとう、長生きしてね。なんでもいいから長生きしてね」
「ディサービスにも行くからね。一生懸命、これ以上、悪くなら
ないようにするから。カエデに電話して言おうかしら?」
「何を?今聞いたことは言わないでよ。忘れてよ」
「忘れるのは得意になってきたけど、妹にそんなこと言うなんて
許せないでしょう。」
「お母さんが言うと、100倍になって返ってくるし…」
「そうだね、あの人、逆恨みが得意だから。どうしてあんな風に
なってしまったんだろう…私が育てちゃったんだね」
「私ね、腹が立つというより悲しいほうが強いの。姉だからね。
でもね、第三者的に柳カエデさんを見るとなんだか哀れに思うの」
「サクチャンだからそう思えるのよ」
「私だから?」
「そうよ。私もね、娘だと思うと腹が立つやら、情けないやら
なんだけど、やっぱりね、柳カエデさんと思うと哀れだわね」
「そうよね…」
二人ともこれ以上何も言えず、しばらく沈黙が続いた。
9月12日
サクラ